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人生の絆   

2015年 04月 15日


心の世界へ

現代は不安の時代とも言われる。
日本ほど豊かで平和な社会はないのだが、多くの人々の心は尽きる事なく悩み続ける。
私が心の問題に関心を持って活動を始めてから可なりの時が過ぎた。そこに至るまでの過程には大きな切掛けになる存在があった。それは十二歳ほど差がある兄との生涯に渡る出会いである。

私の両親は茨城県で製材工場を営んでいた。兄は長男としてその後を継がねばならない古い時代でもあったのだが、しばし大学に進学したいという願いが父の快諾により可能になり法学部に入学した。
その途上、大東亜戦争が勃発し、神風特別攻撃隊として命果てる宿命にあった。
だが終戦になり、幸いにも無事帰宅する事が出来た。然し多くの戦友を失った経験は彼の心に大きな精神的空白を生み出したようだ。復員後、改めて大学で仏教学部に入学したのである。自分の荒廃した心を癒そうとしていたに違いない。
私は大学で実存哲学を学び大学院では東西の思想を統合することに関心を持った。卒業後五年ほど「ブレーン」「コピー年鑑」など出版物を創刊し「アイデア」というようなデザイン関係の仕事に従事していたのだが、相変わらず心の問題に関心を持ち続けていたため、1964年米国留学と共にカール・ロジャーズ博士に個人的な指導を受ける事になった。
このようにお互いに精神的な分野に関わることによって、私どもは心に関する話題などで時を過ごす事が多くなっていった。こうした関係がやがて互いの生涯を形成していったようにも思う。

ロジヤーズ博士に出会う
1949年、当時、茨城県にあった短大(現茨城キリスト教大学)のローガン・ファックス学長は、ロジヤーズ博士の教え子であり、初めて日本に博士を紹介したのである。私どもは郷里が茨城であったためか、早くからロジヤーズ博士の考えに触れる事が出来たのは幸いであった。
現在、二十世紀の心理学会に最も大きな影響を与えた一1人であると言われており、ノーベル賞受賞候補であったのだが、その直前に亡くなってしまったのは実に残念であった。
私は米国において学んだカウンセリング理論や体験を海外から兄に伝え続けた。その中でも特にロジヤーズ博士が公式なワークシヨツプとして1964年初めて開催した「ベイシック・エンカウンター・グループ(人間の根源的出会いブループBasic encounter group)」研修体験は貴重なものであった。
このような研修において、相手の話に対し「評価を越えて無条件に聴く」事の重要性について深く学ぶことができた。また「日本におけるカウンセラー養成に関する提言(Recommendations for the training of counselors in Japan・大学院論文 1969年)を米国の公式論文として完成出来たのもこのエンカウンター・グループ体験なくしては不可能であったと思う。日本のカウンセラー養成に関するものとしては最初の論文であったのかも知れない。
1971年に帰国して間もなく「聴き方教室」を法務省関係の財団法人・日本カウンセリングセンターの教室で初めて開催した。現在、「人の話を聞く事の重要性」が当然のように叫ばれているが、その言葉を聞く度に、当時の事が思い出される。
このような共同活動の中で、兄もまたカウンセリンの重要性を多くの人々に伝達したい気持がより強くなっていったように感じられた。産業界にも、そして県の教育委員長として教育界にも実践的な形で導入し、大きな実績を残していったのである。
その中でもカウンセリング研究所を東京と茨城県の中に創設するのが私どもの大きな願いであった。まず東京に「日本グロースセンター」を設立し、茨城県に関しては初期の頃.私が在米中の頃から何度も計画、相談し続け、かなり古い時期であるが、最初の研究所として「茨城産業カウンセリング協会」が創設されたのである。そのあと幾度か場所や研究所の名称は変わっていったのだが、現在の「公益財団法人・茨城カウンセリングセンター」にまで発展した事は兄としても大きな喜びであるに違いない。
彼の活動は全国的にも評価され、仏教伝道賞を授与され、NHK 教育テレビの「心の時代」には度々出演し、多くの人々の共感を得たのであった。
私は現在ホリスティック(全体的)・カウンセリングの重要性を強調しているのだが、共に活動してきた兄が三年ほど前、東日本大震災と同じ年に他界した時、人生について様々な思いがめぐり、改めてもう一度、生きる事の意味を辿ってみたい気持ちになっていった。

by jgc-osuga | 2015-04-15 20:58 | 詩とエッセイ

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