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光が欲しい   

2014年 07月 29日

光が欲しい 
新たな希望の年を迎える事になった。それにしても、昨年までの苦難に満ちた時の流れは表現しがたいものだ。せめて大自然の光が.全身凍結した我々の心身に春の日差しとなって降り注ぎ、再び生きる活力を与えて欲しい。
不順な季節や気候とともに、一人ひとりのリズムにも様々な葛藤が存在したに違いない。ある時は希望に満ち.また絶望し、その果てには目的のない無感動に襲われることもあったであろう。私にもわずかであったが、そのようなリズムを感ずる時があった。
ある時、何をする意欲もなく、ただ寝床に横たわり、深夜のテレビ放送を見ていた、というより、眺めていたといっていい。しばらくして、番組の内容が変わった。それは現在、東京都美術館で開かれているターナーの絵画展についてであった。
彼は18世紀に英国で活躍した画家である。大自然やその猛威にたいする畏怖や敬意を「崇高」という概念で捉えようとした。雄大な自然の景観ばかりではなく、むしろ、その中で発生した災害を題材にした風景を表現、追及したのである。眩いばかりの光と壮大な自然に囲まれた中で災害に直面、苦しんでいる人々の姿が描かれていた。しかしその情景は霧にかすみ、自然と人間が明確に分離されず一つになっている。或る作品では大海原に小船で遭難した人々の混乱と恐怖の様子が如実に描写されていた。小船を襲う巨大な波が、横になっている私を飲み込むようにさえ感じられる。
この絵から一般に感ずるものは.人間を痛めつける大自然、果てしない大海の無慈悲な仕打ちであろう。だが彼が追求していたものは、たとえそのような光景ではあっても大自然の存在は「崇高」であるという見方であった。一見矛盾しているような画風の表現に引き込まれていった。
今、いたる所で多くの人々が災害によって引き起こされた悲劇に直面している。しかしその根源は人間の限りない欲望のために、美しい自然を破壊した結果ではないか。巨大な津波と原発、宇宙規模の温暖化.それによって、世界の様々な所で悲惨な結果が引き起こされている。いや、人間のみの悲劇と考えてはならない。小さな昆虫も若葉も蟻も命を失っているのである。
人間の欲望は自然の調和を破壊しながら、よりよい物質的生活を留まることなく求め続ける。自然を自由に変革できるものと考えているのであろう。つまり、人間は自然と異なるものであり、知的頭脳を持った唯一の存在者であると勘違いをしているのだ。だが大自然も生命をもって生き、反応している。いや、我々は大自然の一部なのである。
東洋思想の語録の一節に次のような言葉がある。「一即一切 一切即一」。別に言い換えてみよう。一人の個人(一)そのまま(即)大宇宙(一切)の生命そのものである。おそらく東洋においては永年、直感的に宇宙の構造をそのように理解していたと思われる。
今やそれは、宗教や哲学ではない。新たな科学、量子力学によっても確認されていると聞く。我々の全身を宇宙とすれば個人は細胞と考えられよう。一つの細胞が病に犯されている時には、全身もまた病なのだ。いや、全身と細胞は同じであるように.我々人間と大きな自然は同質の存在として繋がっているという。見えない波動で関係しあっている、と言っても良いであろう。それをただ人間が確認できないというだけに過ぎない。
大きな自然災害による被害者にとっては、同じ生命としては考えられないであろう。私自身も幼少の時、幾度も近くを流れる川の決壊によって我が家が浸水し、ある時、父の経営する木工場が濁流に押し流されてしまった。更に数年後、再び.工場は火災によって灰燼と帰したことがある。父親の悲しみが、今でも心から離れない。子供ながら自然に対する深い怒りに傷つけられたのだ。だが、それ以上の大きな災害に打ちひしがれた被災者に比べれば、その思いも比較にならないであろう。
その苦しさはともあれ、今我々は、大自然に対する人間の存在を新たに考えなおさなければならないと思う。すべてのものが、一つの存在として調和を求めているのである。そのように考えれば、一見対立するような大自然の働きも、ターナーが見出したように、我々を大きな光で包み、生かしてくれる「崇高」な愛の働きとも感じられる。
我々の小さな人生、日常の中でも同じことが言えるのではないか。人間は物質的欲求を満たすべく限りなく求め続けるのだが、その目標は走馬灯のように現れては去ってしまう。だが、命はそれに関係なく一刻一刻と時を刻み続け、残り少なくなっていく。そうであるなら、もう少し人生にゆとりを許して生きたいものだ。時には空虚な心や苦難に打ちひしがれる事もあろう。このような重圧な人生に対し、出来るだけ寛大であって良いのではないかとも思う。そこにも大きな意味が存在しているに違いない。そのような生き方がむしろ大自然のリズムと調和して、限りなく落ち込むことをとどめ、むしろ新たな人生観に向かう力さえ与えてくれるのではないか。それが大自然の大いなる愛の姿なのかもしれない。

by jgc-osuga | 2014-07-29 15:34 | 詩とエッセイ

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