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奇跡の一本松   

2016年 04月 20日

奇跡の一本松 

■自然も心も

光り輝く春、そして初夏の季節へと矢の如く時が移りゆく。今年こそ大自然の愛に包まれて心豊かな年を過ごしたいものだ。それにしても、近年と言って良いのか、この冬から春にかけても又、厳しさ極まる時節であった。寒さに加え台風による土砂災害.海では高潮.川では氾濫、大洪水、それに依って生じた交通麻痺など、突然の出来事が余りにも多かった。

だが、外側の現象だけではない。若葉の季節を実感するには程遠く、人々の心が凍えてしまう様々な犯罪も多発している。まだ幼い子供への親による虐待の数々。更に、まだ中学生でありながら警官を襲い.自分が銃で撃たれたいと言う事件の悲しさ。今まで想像していた数や質を遥かに超えている様に思えるのだ。

この様な状況を見ると、自然災害ばかりではなく人間社会の中で、大人も子供も濁流のまっただ中にある様にも感じられる。無論、凡てが安定、調和していれば良いという訳ではないのだが、人間が育ってゆく過程に於いて、最も重要な家庭環境にも難しさがあるからであろう。

時に、子供は親から雷の如く叱られる事もあるが、又親の深い愛に包まれる。そして、すくすくと自分らしく自己成長して行くならば、それは良い家族環境であるとも言えよう。だが、何時も社会や他人を意識して不自然に頑張っているのであれば、表面は穏やかに見えても、それも又人生に味わいがない。何れにしろ、様々な苦難と圧力の中で自分らしく如何に生きるべきか、誰もが当面している課題である。

■激流に耐える

この様な内容の流れに沿っての事だが、自然災害の中にも人間に教訓となる話がある。周知のように、2011年3月11日、突如として特に東北地方において大震災が発生した。東日本の太平洋沿岸部を襲った津波は、太平洋に繋がる広田湾に面した高田松原付近に到達した。最大17メートルの高さで松原の木をほぼ凡てなぎ倒した。だが、70,000本もある松の内、一本の松だけが10メートル程の高さの波を被ったにも拘わらず倒れずに津波に耐え.枝も幹も無事な状態で残ったと言う。

災害を直接体験した者にとっては「奇跡の一本松」と呼ぶ以外に表現の仕様がなかったと言う。それは今、別称として「希望の松」とも名付けられている。いろいろ調べてみればそれなりの物理的理由はあったであろう。だが、大激動の渦中にありながら、大空に向かって悠然と聳え立つ一本の松は、被災者にとって、単なる物理的存在ではなかった。

その松は、様々な意見はあったにせよ、その後、復興の印として残される事になった。今多くの観光客がその松を訪ねて来るそうだ。その松だけを眺めに来る者もいると言う。恐らく一人一人が、心深く共感する何物かを感じ取っているに違いない。
 この様な現象から思うのだが、地上は様々な激変に満ちている。その調和を取り戻すために人間だけではなく、動物、その他一切の自然が葛藤しているのではあるまいか。その根底の願いは同じなのかも知れない。そうであれば、我々の人生も人間と言う枠の中だけに限定して考えるのではなく、他の動物や.植物、山、川、いや、もっと大きな大自然から学ぶべき所があろう。そこで、人間の生き方として二つの道がある様にも思う。だが、そのバランスが重要に感じられる。

■守りの道

凡ての生き物は自分を脅かす事態が起これば、己を守るために拒否的になり対立するのは当然である。だが、人間はその状態が長く続くのが特徴だ。いや、何も無い時でさえ恐れや不安で慄き、何時も傷つかない様に注意深くしている。それは常に甲冑(かっちゅう)を身に付けている様なものだ。徳川家康の言葉ではないが、「人生の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。」である。

又、辛い思いを余りにも避け様としている時、次の事態が起こる。恰も麻酔をかけられている状態になり、目に見えない情報や自然の波動を感じ取れなくなり、直感力が鈍ってしまう。それは単に心理的な事ではなく、事実、神経伝達組織に変化が生じ、医学的にも働きが悪くなる様である。

その限界を超えて他人と共に行動出来なくなると、精神的に崩壊してしまう。多くの人々はこの様な不安に当面しているのではあるまいか。これが我々一般の姿であるとも言えよう。それでは他に生きるべき道は無いのか。

■達磨(だるま)道
或る神社の縁日に出かけた事があった。子供の頃を思い出してしまう。小さな露店商の店には七転八起の達磨が沢山並んでおり子供達が遊んでいる。どの方向に押し倒しても直ちに元の姿に立ち戻る。コンピューターの様な力ではなく、大自然のバランスで自己を回復するのである。

昔から達磨大師に開運を願う人々が多いと言われるが、その意味では子供にも大人にも愛される存在なのは自然である。私共は「一本松」の様に強靱な存在ではないだけに、達磨の如く幾度も倒れる事もあり、絶望してしまう事も数限りなくある。しかし、出来るだけ早く立ち直りたいと願う。残念ながら人間はその苦痛から脱却するために、更に思いを巡らし精神的に張り詰めて無駄なエネルギーを消費してしまう。

一方、自然に従って生きている動物は、人間では考えられない不思議な能力や繋がりで生活をしている。動物的になる事を奨励する訳ではないが、我々も動物である限り貴重な直感能力が潜在しているに違い。人間の活動として表現すれば、無心に行動している時の姿であるとも言えよう。

ある時、テレビを通して世界卓球選手権試合を観戦していた事があった。各々の選手が如何に相手を攻め込むかに就いて作戦を練り、同時に、それを忘れて無心に反応している姿は感動的であった。頭で考え、そして直感的に動く。この相反する二つの動きが同時に存在しているのであるから大変難しい。

戦う前の選手の言葉に依れば、何も考えず期待もせず、ひたすら集中して行きたいと言う。だが敗退した時の苦しみや悲しさは、その表情から如実に窺われる。特に日本の選手にはその様な感情が強く感じられた。それは次の対戦に力になるのか、逆に、心身を余分に緊張させる結果になってしまうのか、私には分からない。だがそこには、何とも言えない人間らしさに惹かれてしまうのだ。

17世紀の哲学者であるパスカルは言った。「人間は一本の葦であり、自然の内で最も弱いものに過ぎない。しかし、それは考える葦である。」と。
彼は子供の時は病弱であったが、父親の素晴らしい教育により世界的科学者に成長した。弱い人間が知的に探求する事によって到達した心境なのであろう。人間の特性として、「考える力」が重要なのは正にその通りである。

ただ多くの人々が困難に当面した時、それを解決するために考え過ぎて捉われてしまい孤独な心境から益々絶望的になる場合が少なくない。動物や大自然はその様な事から自由である。大混乱の中で悠然と青空に聳え立つ「一本松」の姿は、人間が容易に到達し得ない理想の姿として、学び仰ぎたい気持ちにさせるのではないだろうか。

大須賀 克己


by jgc-osuga | 2016-04-20 21:36 | 詩とエッセイ

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