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水輪   

2014年 07月 29日

長い氷雪のトンネルを通り抜け、ようやく
春の香気溢れる世界に到達した。緑に開かれ
た平原。華やかに咲く花々よ・有り難う。こ
れからは未来に希望をもって生きられそうだ。
茨城の水戸市に近い田舎に生まれた私に
とって、あの偕楽園に咲き誇る梅林の香りが
私を引きつける。また江戸時代に植えられた
という国道の左右に、小学校への登校を見
守ってくれていた暖かい桜並木の景観が甦っ
てくるのだ。風に吹かれて子供たちを包む花
吹雪。小鳥も花も草も希望の季節を謡歌して
いるようにさえ感じられる。生まれ故郷の思
い出は、少々辛いことがあっても、現在の私
を支える記憶として消え去ることはないであ
ろう。
今、東日本の被災者たちは様々な不安な状
況が存在しながらも、生まれ育った所に戻り
たい、或いは高齢者であっても、古き故郷を
去りがたいという言葉をよく耳にする。事情
はともあれ、その心情に深く共感してしまう
のだ。
それにしても今年の冬は厳し過ぎたのでは
あるまいか。多くの高齢者たちにとっては冷
気が内臓までも浸透する思いであったに違い
ない。また数十年ぶりという豪雪にも遭遇し
た。
都内に住む私にとってみれば暫らくぶりの
降雪ではあったが、北国に住む人々と比べれ
ば、その深刻さからは遥かに遠い。
二月半ばであったろうか。私は個人的な仕
事のために近隣の喫茶店で過ごしていた。東
京としては本降りの雪が降り始めた。急いで
帰宅しようとして外に出てみると本降りとい
うよりは、綿雪が私の顔や洋服を静かに覆い
始めた。一瞬立ちどまってその柔らかい雪を
片手でつかもうとした。それは大劇場などで
最後の幕を飾るフィナーレのように、花吹雪
にも似た不可思議な快い感覚なのだ。そのわ
ずかな時が、私を子供時代の記憶へと引き戻
していった。
当時の冬は暖房設備のない木造住宅での生
活で、かなり厳しい寒さであった。小学校へ
は何人かの友が待ち合わせて集団登校する。
大場の照る温もりを求めて友を待ち、足袋も
はかず通い続けたその冬が今の私にとっては
余りにも格差がある。
広い田園に囲まれた自宅、上流には筑波の
山を望む澗沼川が流れていた。私の隣家には
古い池があり、そこには蛙やどじょう、小魚、
そして昆虫等が生息していた。そのような自
然環境の中で時おり綿雪が降り、それが積雪
に繋がることもしばしばであった。田や池の
水面は氷結して、子供たちは身近なスポーツ
を生み出し、それを石切と呼んだ。手頃な小
石を掴み、氷の表面に向けて投げつけるのだ。
飛んで行く距離によって勝敗が決まる。小石
はコンクリートに激突するような固い音を立
てながら遠くまで到達する。だが氷の上には
生きるものは存在できない寂しい風景なのだ。
やがて春の季節が訪れる。今まで冷たい水
中で耐えていた動物たちも新たな息吹ととも
に動き始める。小学生の私は、氷の溶けた池
の中を生活の場としている蛙や様々な昆虫な
どを観察することに興味を持っていた。その
ために池の縁に佇むことがしばしばであった。
静かに池の水面に目をやると蛙がじっとこち
らを睨んでいる。
ある時、周りの草むらから静かな水面に小
さな昆虫が飛びおりた。だが沈まない。私の
いることに気づいたのだろうか。私を恐れ、
じっと私の動向を伺っているように感じられ
る。私が手を差し伸べると、必死に逃げよう
とする。どのような小さな生命体であれ、私
どもと変わりない恐怖や、不安感、あるいは
春到来の喜びさえ感じられるのかも知れない。
古池の静かな水面は、微細な動きにも小さ
な波の輪を作り、虫の一瞬一瞬変化する心を
伝えてくれる。それは平和な世界だ。蛙が飛
び込む時に水の音がもたらす心の安らぎ、大
人であったなら、芭蕉の名句に共振してし
まったであろう。
-「古池や蛙とびこむ水の音」-
今、私どもはある意味で、豊かな社会に住
んでいる。何処にも通ずる交通手段、世界を
一瞬に駆け巡る通信網、かつては考えられな
い極限の進歩である。
だがそれとは逆に、職場、家庭、そして子
供たちの楽園であるべき教育の場においてさ
え、精神的に追い詰められ、心は氷塊のごと
く硬直し苦しんでいる人々が少なからずいる。
欝の氷に深く閉ざされ他者に心が開けないの
だ。石切ゲームのように、相手に対しても激
しく衝突する響きになってしまう。それは他
者を恐れ、自己を極限に守り続ける姿とも言
えるのではないか。感受性が失われ、相手の
微妙な心を感ずる事さえ出来なくなってしま
う。ひたひたと波うつ水面のように、命ある
もの同士が繊細な心の輪を通して理解し合い、
充実して生きたい。
心の春よ早く来い早く来い。そして永
い間冬に閉ざされた心を溶かして欲しいのだ。
仏の教えに妙観察知という言葉がある。
我々には人間という次元でしか論じられな
いのだが、本来意味するところは、人間だけ
でなく、花にも、動物にも、いや、この世に
存在する一切のものに喜びや苦しみが存在し、
その微妙な命のひだを察知、感じる事の大事
さを示唆しているように思う。私どもの知恵
では及ばない事だが、仏の大いなる智慧に触
れるだけで、どこか狭隘な人間だけの世界を
超えて、自然と共に生きる心もまた育くまれ
て来るように惑じられる。

by jgc-osuga | 2014-07-29 15:57 | 詩とエッセイ

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