アンリの生まれた所は、大変自然に恵まれていました。特に春は美しく、野原いっぱいに、赤や黄色、白といった花が咲きほこります。アンリはたくさんの兄弟を持つ蟻の家族に一番上のお姉さんとして生まれました。やがて可愛い娘に育っていきましたが家族は貧しく、お父さんばかりでなくお母さんも子供達を育てるために一生懸命働いていました。それどころか、まだ小学生の幼いアンリも生活を支えるために、学校から帰ると泥と汗にまみれて近くの工場で働かなければならなかったのです。
アンリは幼い上に体が弱く、他の蟻さんたちと一緒に仕事をしていくことが大変でした。ときには仕事が遅れ、働いている仲間たちの邪魔にさえなってしまうのです。アンリの村の蟻さんたちは皆働き者でしたがとても厳しく、中には意地悪な蟻さんもいました。アンリの働いている所で、いろいろな仕事の命令をしたり指示したりする監督さんは、アンリを叱ったりお尻を叩くことさえあるのです。「もっと早く歩けないのか。」「すみません。」ただ謝ることしかできません。アンリは哀しみました。
アンリの村は山に囲まれて近くには川が流れていました。その川の堤防は山のように高く、その麓がアンリの住んでいる村で大変急な斜面にありました。でも川の下流には静かな広々とした田園が続いているのです。
ある夏の終わるころでした。山頂の空に黒い雲がもくもくと登りはじめたのです。あたかも山が怒り始めたようでした。その暗黒の雲はみるみるうちに広がりアンリの村を真っ暗に覆ってしまいました。間もなくアンリが今まで経験したことのない大粒の雨が、まるで滝のように降ってきたのです。そればかりではありません。雷の音も耳をつんざくばかりでした。稲妻の光は薄暗くなった村の上を大きな電灯で照らすようでした。あちらこちらで崖崩れが起こり、ついにアンリの足元までが崩れてきました。必死になって大きな木にしがみついたのですが、アンリの弱い体力では無理でした。「ああ大変、危ない、お母さん!」と叫びました。でも聞こえるのは水で崩れる土砂と雨の音だけでした。ついにアンリは川に押しやられ流されはじめたのです。ふと見ると小枝が浮かんでいるので、それにつかまり、やっと這いあがりました。
アンリを乗せた小枝は筏のように激流にのまれ、あてどなく流されていきました。「ああ、もうだめだは、家族の人達、みんな助かったかしら。」いろいろな不安が頭に浮かんでくるのです。そうこうしているうちに時間がずいぶんたって、アンリは疲れ切ってしまいました。お腹も空いて、とうとう眠るように意識を失ってしまったのです。
それから、どれほどの時間がたったのでしょうか。ふと意識が戻ったのです。「ここは一体どこかしら?」今まで乗っていた小枝ではなく、大きな地面に横たわっているようにもう思えました。でもベッドのように柔らかく、冷え切ったはずの体が暖かいのです。力のない体を起こして見て驚いてしまいました。大き目がきょろりと後を向いて、アンリを心配そうに覗いているのはカエルさんでした。その背中の上に横たわっているではありませんか。その優しそうなカエルさんは言いました。「ああ良かった。もう心配しなくてもいいですよ。死んでしまったように弱っていた君が流れてきたので、僕の背中に乗せて意識が回復するまで体を温めながら待っていたんですよ。僕の名前はエルです。この田園の村に住んでいるんです。体が良くなるまで、僕の家に休んでいてもいいですよ。」体は大きなカエルさんでしたが、年齢はアンリより少し上のお兄さんのようでした。
アンリはエルさんの家族たちに介護されながら過ごしておりました。そして日ごとに元気を取り戻していきました。水の上で生活するのは初めてでした。すべてが新しく、毎日の楽しいときは夢のように過ぎていきました。そんなあるとき、エルはアンリに向かって静かに言いました。
「体もだいぶ回復してきたね。僕は君を村に送り返してあげないといけないね。カエルの村に住んでいる仲間たちは蟻さんほど勉強したり働いてはいないけど、みな家族も平和で楽しく過ごしているのさ。あちらを見てごらん、お父さんの上に小さな子ガエルが乗って楽しく泳いでいるでしょう。僕たちは水の住まいがあれば、それ以上不満がないんだ。雨が降ったら嬉しいし、暑い日でも水に入っていたら涼しいし、天気のいいときはみんなで楽しく、げろげろ、があがあ、と大きな声を出して合唱などして過ごしているんだ。だからここに住んでいることが本当に楽しい。」
「君もいっしょに長く居られたらいいけど、僕たちの村では君にとって退屈すぎるかもしれないね。また家族の方たちもアンリさんを心配しながら待ち焦がれているに違いないさ。」
アンリはいつの日か訪れるこの時を、心の中でかみしめるかのように静かにうなずきました。エルはアンリを背に乗せて、初めて二人が出会ったところに近いアンリの村の岸に着きました。西の空が真っ赤に染まり、太陽が山の端に沈もうとしていました。水量豊かな田園は夕日に照らされた二人の姿を写していました。エルとアンリの目には光るものがありました。「アンリさん元気でね。またいつか会えたらいいね。」「エルさんもお元気でね。ありがとう。」
やがてアンリもエルも、もとの生活に戻ることになりました。アンリは家族と出会うことができましたが、アンリを心配していたためか両親はすっかり痩せおとろいて体力を失っているように見えました。やっぱり働き続けなければなりませんでした。でもアンリはエルの優しさを忘れることができません。夜になると田園から聞こえてくるカエルさんたちの声の中に、エルの泣き声が混じっているように思いました。しかもアンリに呼びかけているようにさえ感じられたのです。アンリはエルのように大きな声で返事できないのを哀しみしみました。アンリは田園の辺りに行き佇むことがしばしばでした。仕事のときでも、その近に来ると一瞬立ち止まってしまうこともありました。
その時です。高い所から大きな石がゴロゴロと落ちてくるではありませんか。「危ない!」アンリはそれを避けきれず、足を打って再び水の中に落ちてしまったのです。高いところには意地悪な監督が足早に立ち去る姿が見えました。
アンリは再び流され始めました。「痛い!」でも、必死になって慣れない川を泳ぎ続けました。もう力が尽きたと思ったその時、以前と同じように再び小枝がふわふわと浮かんでくるではありませんか。夢中になってそれにつかまり這いあがりました。でも水の流れはしだいに早くなって再び田園の方に押しやられてしまったのです。こうして一日、二日とたつうちに激しい痛みと熱でうなされて、意識がなくなりました。やがて体は氷のように冷たくなってしまったのです。
一方、エルはアンリと別れてから、二人が初めて出会った所をいつものように訪ねていました。そしてアンリの住んでいる村の方を今日もぼんやりと眺めていました。ふと上流の方に目をやると、あの時と同じような枯れ枝がふわふわと流れ近づいてくのです。しかもその上に誰かが横たわっているようです。エルは急いでそばに泳いで行ってみると、そこに横たわっているのはアンリではありませんか。
足には血がじみ、顔色は蒼白です。エルは必死にアンリを抱きしめ、「アンリ、アンリ、 エルですよ、起きて!」と夢中になって呼んでみるのですが、アンリは再び答えることはありませんでした。エルから落ちる大粒の涙が、エルに抱えられたアンリの頬を濡らし、しばし二人の過ごした田園の水面に注がれていくのでした。でもアンリの顔が静かに微笑んでいるようにさえ見えました。山の彼方には最初に別れたあのときのように、真っ赤な太陽が二人を見守りながら静かに沈んでいくところでした。
終わり